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放射4号線って246なんだ こんなタクシー見たことが無い(当時タクシー乗ったことが無い) 環状2号は最近になって完成 築地とセットでしたね
現在のホラタヌキ率いる、利権にまみれ外国勢力の影響ばかりの都政と比べ、何と頼もしく誇らしい都政であったか・・
用賀の坂上から新町への眺めが凄いな、この先に志賀直哉邸か新線開通してかつ首都高がまだ出来ていない刹那の光景
整備された今の東京があるのは,この時代を生きた全ての人達のお陰ですね、感謝です‼
高度成長期の貴重な映像ありがとうございました。
去らずに残れた道路脇の商店はビルに建て替えて感謝してるだろうな残ってるか知らんが
東京と言えば「都市計画の頓挫」があまりに悪名高く全国どころか世界的に常識化しているのですが、他の都市と違って完全頓挫したのは終戦直後の計画だけで、その後、昭和30年代に東京五輪の整備名目でかなり巻き返しているんですよね。この青山通りなどは典型で、有名な名古屋の道路に引けを取らない。でもあまり自覚すらされていないのはせっかく広げた道の多くに首都高の高架を被せることになったためで、首都高を取り払えば六本木通りなどもなかなかの広さ。
ジェットストリームの声
この頃の246号沿いは、三軒茶屋のあたりからは、まだまだ道路の向こうに空が見渡せたんですねぇ。道路わきにまでビルが林立する今からでは想像つきませんが。。w
こういう動画グッド!
もう、この頃から交通渋滞が、始まっていたのですね!ちなみに、昭和41年頃からとマイカー元年と、言われましたね!一気に、自動車が増えていきましたね!
古過ぎて知らない風景ですがなぜだか懐かしい気がします。
東京と沼津までを結ぶ国道246号線やん。ドライブルート
戦後まだ20年経たないうちにこれだけの車が道路に溢れ返ってたんですね。
皇居の周りをぐるっと一周してるのが環状一号というのはイメージできるが、他で完成した環状線は『環七』だけ。都心部の土地の値段が上がり過ぎて環状二号~六号は計画倒れになってしまったのじゃろうなあ…
今も246と首都高3号線は渋滞が酷いよなぁ首都高下り渋谷入口が完成したのだから下り三軒茶屋入口は15時〜21時は閉鎖した方が流れは良くなると思う
動画に出てきた道路拡張の為に立ち退いた和菓子屋のとらや戦前の内務省制作の啓発映画(これもYou Tubeで見れる)では空襲に備えたコンクリート製商店の模範として出てたけど頑丈に建て替えたのにオリンピック前には道路拡張の為に立ち退いて壊してたんだな全然違う動画で結末知って面白かったw
自分が産まれてすぐの頃です。(当方 昭和37/12生まれ)🤗🤗
ナレ―ションが城達也さんですねえ
11:32の建設現場は無人だけど、なんか今見ると違和感があるね。今なら警備員が必ずついてるもんな。
8:18 都心とはいえ当時で坪58万円って相当高くないか?
青山ですからね今だと坪500万円以上ですよ
@@kgskim 1963年大卒初任給(公務員)15.700円 高卒初任給(公務員)11.000円牛乳:16円 かけそば:40円 ラーメン:50円 喫茶店(コーヒー):60円 銭湯:23円 週刊誌:40円 新聞購読料:450円 映画館:250円。。。なるほど、ほぼ計算が合いますね笑
後半急にナレーションが消えて字幕だけになるのはなんでや?権利関係か?
この頃建築されたビルの中には、老朽化で取り壊されたものもあるでしょう。
この頃のゼネコンの課長や部長などの役職つきの人は凄く給料が良かったと聞いたけど、それもうなずけると思った
>都心部の土地の値段が上がり過ぎて環状二号~六号は計画倒れになってしまったのじゃろうなあ…環状6号線って山手通りの事なんじゃないのかな
そうですね。山手通りは環6です。私の子供の頃は山手通りよりも環6が一般的だったと思います。因みに、環状1号線が主に内堀通り環状2号線が主に外堀通り、環状3号線が主に外苑東通り環状4号が外苑西通り、環状5号線が明治通りですね。
一番最後のシーンは、旧こどもの城の前あたりから青山大学正門を見る角度で、おそらく間違いないと思います。
成田空港の時みたいな強制収用しなかったんだ。
東急世田谷線 200形、80形とか現役だね
玉電だぁ
1:39 環八は影が薄いどころか、既設道路無理やり繋いだだけ…もはや都心と郊外の線引きくらいの意味合いしかないよくぞ環七並みの道路規格までに格上げされたな
まるで60年程前の映像のようだ。
この頃は今のお金に換算して年間2兆円位公共投資して五輪に備えたが、今回も五輪に向けてそれ位の公共投資したんだろうか?
3兆円だっていってたけど。
放射4号線って246なんだ こんなタクシー見たことが無い(当時タクシー乗ったことが無い) 環状2号は最近になって完成 築地とセットでしたね
現在のホラタヌキ率いる、利権にまみれ外国勢力の影響ばかりの都政と比べ、何と頼もしく誇らしい都政であったか・・
用賀の坂上から新町への眺めが凄いな、この先に志賀直哉邸か
新線開通してかつ首都高がまだ出来ていない刹那の光景
整備された今の東京があるのは,この時代を生きた全ての人達のお陰ですね、感謝です‼
高度成長期の貴重な映像ありがとうございました。
去らずに残れた道路脇の商店はビルに建て替えて感謝してるだろうな
残ってるか知らんが
東京と言えば「都市計画の頓挫」があまりに悪名高く全国どころか世界的に常識化しているのですが、他の都市と違って完全頓挫したのは終戦直後の計画だけで、その後、昭和30年代に東京五輪の整備名目でかなり巻き返しているんですよね。この青山通りなどは典型で、有名な名古屋の道路に引けを取らない。でもあまり自覚すらされていないのはせっかく広げた道の多くに首都高の高架を被せることになったためで、首都高を取り払えば六本木通りなどもなかなかの広さ。
ジェットストリームの声
この頃の246号沿いは、三軒茶屋のあたりからは、まだまだ道路の向こうに空が見渡せたんですねぇ。
道路わきにまでビルが林立する今からでは想像つきませんが。。w
こういう動画グッド!
もう、この頃から交通渋滞が、始まっていたのですね!ちなみに、昭和41年頃からとマイカー元年と、言われましたね!一気に、自動車が増えていきましたね!
古過ぎて知らない風景ですがなぜだか懐かしい気がします。
東京と沼津までを結ぶ国道246号線やん。ドライブルート
戦後まだ20年経たないうちにこれだけの車が道路に溢れ返ってたんですね。
皇居の周りをぐるっと一周してるのが環状一号というのはイメージできるが、他で完成した環状線は『環七』だけ。都心部の土地の値段が上がり過ぎて環状二号~六号は計画倒れになってしまったのじゃろうなあ…
今も246と首都高3号線は渋滞が酷いよなぁ
首都高下り渋谷入口が完成したのだから下り三軒茶屋入口は15時〜21時は閉鎖した方が流れは良くなると思う
動画に出てきた道路拡張の為に立ち退いた和菓子屋のとらや
戦前の内務省制作の啓発映画(これもYou Tubeで見れる)では空襲に備えたコンクリート製商店の模範として出てたけど
頑丈に建て替えたのにオリンピック前には道路拡張の為に立ち退いて壊してたんだな
全然違う動画で結末知って面白かったw
自分が産まれてすぐの頃です。
(当方 昭和37/12生まれ)🤗🤗
ナレ―ションが城達也さんですねえ
11:32の建設現場は無人だけど、なんか今見ると違和感があるね。今なら警備員が必ずついてるもんな。
8:18 都心とはいえ当時で坪58万円って相当高くないか?
青山ですからね
今だと坪500万円以上ですよ
@@kgskim
1963年大卒初任給(公務員)15.700円 高卒初任給(公務員)11.000円牛乳:16円 かけそば:40円 ラーメン:50円 喫茶店(コーヒー):60円 銭湯:23円 週刊誌:40円 新聞購読料:450円 映画館:250円。。。なるほど、ほぼ計算が合いますね笑
後半急にナレーションが消えて字幕だけになるのはなんでや?権利関係か?
この頃建築されたビルの中には、老朽化で取り壊されたものもあるでしょう。
この頃のゼネコンの課長や部長などの役職つきの人は凄く給料が良かったと聞いたけど、それもうなずけると思った
>都心部の土地の値段が上がり過ぎて環状二号~六号は計画倒れになってしまったのじゃろうなあ…
環状6号線って山手通りの事なんじゃないのかな
そうですね。山手通りは環6です。
私の子供の頃は山手通りよりも環6が一般的だったと思います。
因みに、環状1号線が主に内堀通り環状2号線が主に外堀通り、環状3号線が主に外苑東通り環状4号が外苑西通り、環状5号線が明治通りですね。
一番最後のシーンは、旧こどもの城の前あたりから青山大学正門を見る角度で、おそらく間違いないと思います。
成田空港の時みたいな強制収用しなかったんだ。
東急世田谷線 200形、80形とか現役だね
玉電だぁ
1:39 環八は影が薄いどころか、既設道路無理やり繋いだだけ…
もはや都心と郊外の線引きくらいの意味合いしかない
よくぞ環七並みの道路規格までに格上げされたな
まるで60年程前の映像のようだ。
この頃は今のお金に換算して年間2兆円位公共投資して五輪に備えたが、今回も五輪に向けてそれ位の公共投資したんだろうか?
3兆円だっていってたけど。